甲斐の銘酒・春鶯囀:しゅんのうてん[山梨県富士川町]

萬屋醸造店の歴史

春鶯囀とは・・・

p7.jpg当時の店頭創業220余年の歴史を有する萬屋醸造店の創業は、寛政2年(1790年)にまで遡ります。初代当主・萬屋八五郎が、現在の地に酒蔵を開き「一力正宗」が誕生しました。以来、現在に至るまで皆様に愛される酒として脈々とその伝統は受け継がれて参りました。

創業以来「一力正宗」の名で親しまれてきた酒銘は昭和8年(1933年)、6代目当主・中込旻の弟、フランス文学者・中込純次と文学交流を通して交友の深かった歌人、与謝野鉄幹・晶子の来訪により、現在の「春鶯囀」へと新たな酒銘をいただくこととなりました。

この年の秋、当蔵にお出でいただいた折、饗応の酒に舌鼓をうち、晶子が詠じた和歌は「法隆寺などゆく如し甲斐の御酒(みき)春鶯囀のかもさるゝ蔵」というものでした。この歌に感動した6代目当主・中込旻が、酒銘を「春鶯囀」へと改名したのです。

戦後の昭和27年(1952年)7代目当主・中込平一郎は株式会社萬屋醸造店に改組、法人組織としての第一歩を踏み出し、同51年(1976年)、醸造用糖類の使用を全廃し、いわゆる三増酒の廃止を高らかに謳いあげ、ついで同53年(1978年)には、「春鶯囀」を当時としては珍しい純米酒で発売いたしました。翌年には、富士山の湧き水を使った純米酒「富嶽」を商品化し、このころから純米酒こそ当蔵の考える日本酒というコンセプトを確立して行きました。

平成元年(1989年)、新蔵完成。同6年(1994年)、滋賀県大中地区で有機農法による酒造好適米「玉栄」の契約栽培に着手。ついで同8年(1996年)、地元・増穂地区での「玉栄」の栽培を開始します。同10年(1998年)、平一郎の子息・元一郎が社長に就任いたしました。

8代目当主・元一郎が社長に就任した後、かねてより想いを馳せていた本来の日本酒の姿に立ち返ろうと酒造好適米「玉栄」をこの地、増穂で栽培を開始。同12年(2000年)、増穂の地での栽培に成功した「玉 栄」による純米酒「鷹座巣(たかざす)」を完成。これにより当社の全量 に占める純米酒比率は79%となりました。また全量の平均精米歩合も58%という高さを実現しています。

同13年(2001年)には、地域文化への貢献を担った、旧蔵を改造した酒蔵ギャラリー「六斎」をオープンいたしました。この六斎では地域の優れたアーティストを始め世界的な活躍をするアーティストの個展をはじめ、当蔵の旬の酒を利き酒できる空間として皆様に公開しています。

萬屋と与謝野晶子

法隆寺など行く如し甲斐の御酒 春鶯囀のかもさるゝ蔵

金屏風.jpg晶子直筆の金屏風明治・大正・昭和と雑誌『明星』『冬柏』などに歌を発表し続けた与謝野寛・晶子夫妻は、互いを支え合い浪漫主義を世に広めていきました。

その流れのなかで大正10年、西村伊作・石井柏亭らと芸術を通し「完全な個人をつくる」ことを目的とした教育をおこなう文化学院を設立しました。教授には当時の一流の芸術家が名を連ねた中、晶子は初代学監に就任しました。

萬屋醸造店六代目社長中込旻の弟純次はこの学院に学んだ愛弟子の一人であり、後にはフランス語の教鞭をとることにもなりました。また、旻の母さとじも夫妻を師と仰ぎ書簡を交わす仲でもありました。このような縁により、寛と旻の数度による打ち合わせの後、かねてより望んでいた甲州の旅を実現されました。

昭和8年10月、昇仙峡に一泊された翌日の夕刻、当地に到着され、その印象を親しみを込めて「わが友の増穂の村の夜の草に くるまの触れてなつかしきかな」と詠われました。翌日は早朝より富士川周辺と酒蔵を散策され「法隆寺など行く如し甲斐の御酒 春鶯囀のかもさるゝ蔵」と当蔵の酒の優雅な味と香りを讃えてくださいました。

当蔵では与謝野寛・晶子夫妻ゆかりの品々を所蔵し年に数度ではございますが当蔵ギャラリー・ろくにおいて展示いたしております。