萬屋醸造店 春鶯囀 しゅんのうてん 日本酒

萬屋醸造店の歴史

 

History
酒蔵のはじまり

1790年(寛政2年)初代 萬屋八五郎が現在の地に酒蔵を開き「一力正宗」の酒銘が誕生しました。
萬屋の「萬」は「万」と表すため、「万」を分解した二文字「一」と「力」に由来します。
酒蔵誕生には富士川町(旧増穂村、旧鰍沢村)の歴史・文化が深く関わっています。
富士川町はその昔、静岡と甲州(現山梨県)を結ぶ富士川舟運の要衝の地として栄えました。
今から400年前、徳川家康の命を受けた角倉了以(かどくらりょうい)により、富士川流域の鰍沢(現富士川町)から駿府の岩淵までが開削され開通しました。
駿信往還と駿州往還の交わる地点に位置していた富士川町は、山梨県の玄関口・流通の拠点として大きく発展しました。当時の主な積荷は「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、下り荷は甲州や信州からの幕府への年貢米、上がり荷は塩などの海産物が中心でした。船は人や物を運び、鰍沢には全国から集められた物品・文化・風習が次々と流れ込み、経済・文化の表玄関として栄えました。周辺の農村部ではその影響を受け、養蚕、桑栽培が発展しました。このように富士川舟運の発展を背景に、当社だけでなく多くの酒蔵がその周辺で酒造を始めました。

 

Shunnoten
与謝野晶子と春鶯囀

法隆寺など行く如し 甲斐の御酒 春鶯囀のかもさるゝ蔵

萬屋醸造店の歴史 春鶯囀 日本酒 しゅんのうてん
明治・大正・昭和と雑誌「明星」、「冬柏」などに歌を発表し続けた与謝野鉄幹・晶子夫妻は、大正10年、西村伊作・石井柏亭らと「芸術を通じて完全な個人をつくる」ことを目的とした教育を行う「文化学院」の設立に参画し、晶子は初代学監に就任しました。

当蔵六代目当主 中込 旻(なかごめ あきら)の弟純次は、大正15年に併設されたが大学部の一期生として学園で学んだ与謝野鉄幹・晶子夫妻の愛弟子の一人でした。純次は後にフランス語の教鞭をとり、妻富美子も共に与謝野鉄幹・晶子夫妻と職員室で机を並べることにもなりました。

また、旻の母さとじも夫妻を師と仰ぎ、短歌の道に書簡を交わす仲でもありました。このような縁により、かねてより望んでいた甲州(山梨県)の旅を実現されました。その際、
「法隆寺など行く如し 甲斐の御酒 春鶯囀のかもさるゝ蔵」
とお酒の味と香り、そのたたずまいを讃えお詠みくださいました。

寛政2年(1790年)創業より「一力(いちりき)正宗(まさむね)」の酒銘で販売しておりましたが、六代目当主旻はこの詩に深く感銘を受け、これを機に「春鶯囀(しゅんのうてん)」と改め今日に至っております。
 

 

Sake
お酒について

昭和51年 醸造用糖類の使用を全廃し三倍増醸清酒の廃止
昭和53年 「春鶯囀 純米酒」を発売
昭和54年 「春鶯囀 純米吟醸 冨嶽」を発売
平成8年 酒造好適米「玉栄」の契約栽培を地元で開始
平成12年 「玉栄」を原料とする「春鶯囀 純米酒 鷹座巣」を発売
平成13年 酒蔵ギャラリー六斎 をオープン
平成23年 「春鶯囀 酒米づくり協議会」を発足
平成29年 純米酒売上比率75%以上